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Japaayurveda

日本人の、日本人による、日本のためのアーユルヴェーダのつもりが今のところ只の雑文録。

2024/05    04« 1  2  3  4  5  6  7  8  9  10  11  12  13  14  15  16  17  18  19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29  30  31  »06
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 相変わらず砂漠の監獄で試験勉強しかすることのない日々です。
 
 とうとう(当地にしては)長い雨季が9月中旬で終わったので、もうあとは
じりじりじりじりじりじりじりじり暑くなる一方です。来年の6月までもう一滴も
雨は降らないので、今は緑の木々も、時期に土埃で真っ白になることでしょう。

雨季の前に春からいきなり夏本番(40~50度)となり、その後雨季となり
(20度~30度)、秋に再び暑くなる(30度~40度)、という点が、お彼岸を
過ぎると涼しくなる一方の日本の四季とは大いに異なります。

 幸いわたしの独居房には冷房が付いているので20度台で発狂すること
なく勉強できていますが(停電しない限り)、古い独房にはついていないので、
そして大抵の外のアパートにもついていないので、他の学生はさぞ暑いだろうと
思います。

 さて、難しい言語のひとつ、サンスクリット語を勉強していましたが、参考書に
内容だけ書いてあって、その超短縮型暗号のような条文。が見当たらない項目に
出くわしました。
 
 日本語の参考書を見ましたが、同じ内容が書いてあります。

 でも条文一覧ブックを見ても、それに相当する条文は書いてありません。

 本当にそんな条文があるのかどうか、確かめる術がありません。

 サンスクリット語の受け持ちの先生は亡くなられてしまったし、質問できる人がいなくて
困った。

と思ったわたしは、ダメ元で、日本語の参考書の著者宛てに、出版社にメールを出しました。

 お宅のこの本のほにゃページにこれこれ書いてあるけれど、これに相当する条文を
教えてください。今インドで10月の試験に向けてお宅の本と共に勉強してるんです。

と書いて送りました。

数日間、返事はありませんでした。今まで、アーユルヴェーダ関連の本で2,3回、読んでいて
疑問に思ったところ、誤植ではないかと思うところなどを出版社に指摘したことがありますが
返事が来たことは一度もありません。

 だから、正直期待はしていませんでした。そこを飛ばして勉強していたある日、メールボックス
に出版社からの返事が来ていました。

著者に確認しましたところ、このような返事が来たので添付します。

ということで添付ファイルは、わたしのPCでは開けないタイプだったので、しばらくネットで
ググってフリーソフトをナロウバンド環境下で5時間以上かけてダウンロードしたりして
頑張りましたが開けず、結局Mac userの姉に頼んで開いてJPEGにして添付しなおして
もらいました。


『  iwamula様

××××(参考書の名前)をご利用いただき、ありがたく存じます。
インドにてLaghusiddhaantakaumudiiをテキストとしてサンスクリットを学習されて
おられるご様子、インドの伝統的な方法でサンスクリットを学ぶのは極めて有意義
だと思います。

さて、ご質問のnの反舌音化についてですが…(中略)

…以上、私のわかる範囲で、ご質問にお答えしました。ご精進をお祈りします。

                                   △☆□▼◇(署名)』


という内容でした。

比較的すみやかに著者ご本人が(東洋大学の元学長先生なのです)お返事下さった
こと、日本語の美しいこと、励まして下さったこと、など、まともに返事をもらったことが
初めてだったこともあってとても感激しました。

是非受かってご厚意に答えたいものです。

そんなわけで11月まで更新はお休みします。

 
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以前消したブログの最後のエントリーを忘れてしまいました。なので重複していたらスミマセン。でございますが、これを書かないと話が繋がらないので、面白くなくて重くて暗い話ですが書きます。なので読みたくない人はここでUターンよろしく。









け、警告はしたからね!

ということで。時は再び8月上旬にさかのぼる。

転校したかった名医先生の大学に1年生からはちょっと…。落した3科目通ってから来てよ。と言われたので、不承不承じゃーむながーるに戻ったiwamulaでしたが、当然、やる気がないつまらない科目ばかりだったのでやる気が出ない。

怒涛のただひたすら暗記暗記暗記。が要求されるサンスクリット語、それって歴史というよりは神話やん。という、あんまし中身のない医史学、これもかなり、アーユルヴェーダに関するところを無理やり集めて教科書にしました。な苦しい感が漂う哲学。

でも通ればまだ万が一でも転校の可能性があるし。ということで嫌々過去問の分析から始めましたが、去年(iwamulaが受けて落ちたやつ)はやはりダントツに難しいので、調べていてもわからない。

担当の先生に聞きに行きましたが、担当の先生もわからない。ちょっと調べてくるわね。と言っていて、翌日、翌々日、よくよく翌日、と3回くらい聞いたけれどもまだわからない。超難しい問題というかマニアック問題。

 担当教官がわかんないってどういうこと!?と思いましたが、それでも不適切ではない、やさしい問題だ。と言い張る担当教官。 だったら何で4割しか通らないわけ?あんたの教え方が悪いんでしょーが。と喉まで出かかるも、時は戻せない。怒りを呑み込んだままそうですか、と引き下がる。

 サンスクリット語に至っては、正月休みに先生が交通事故で亡くなられたので、先生不在。急遽下の学年にあてがわれた先生はもともと、ジモティ用。つまり、英語が不自由でおられるので、昨日Aと説明したことを今日はBだった、と言ったりこちらの質問がわからなかったり、とコミュニケーションが難しいレベル。

 面識がないうえにそんな英語力のない先生じゃどーしようもない。

 と思って、かつての同級生、唯一全教科合格学年トップ君。が、じゃーむながーるに戻ってきたとき、「何か助けが必要なら恥ずかしがらないで言ってね」と言ってくれたのでその言葉を頼りに恥を忍んで彼に聞きに行くも

「忘れた」

の一言。他の、追試で通った元同級生二人も「忘れたわ」「それ、何の科目?」という始末。

すぐ上の学年の学年トップさん。に聞いたら。というも、あなたたちが覚えていない科目を、2年生の試験の科目の暗記ですっかりサンスクリット語なんて流れ去ったと思われる、さらに上の学年に聞いてわかるわけないでしょうが、フツーに考えて。

というわけで、白人の皆さんはすぐ「何かあったら助けるよ」と気軽に言う割にはいざとなると全く助けにならない、要するに社交辞令だったんだね。ということでかなり落胆、失望して帰宅し…ようとしたところ、問題の元凶、iwamulaの学年にわざと難しい出題、厳しい採点シフトを組んでiwamuraを落とした教授が現れた。

「すべて順調かい?」

はァ?あんた馬鹿? 母親死んで2か月で元気ぴんぴんになる奴がどれくらいいる? 誰のせいでこんなところでこんなことしてると思ってんの?

とキレそうになるのを眉をひそめて顔を引きつらせて嫌そうな雰囲気を漂わせて「いいえ」というのが精いっぱいでした。

部屋に戻ってからも自分の非を認めない担当教官や元同級生や元凶教授への怒りではらわたが煮えくりかえっていました。

かと思うと、こんなクソ大学でこんなダメダメ状態になって、それで母親に心配かけて、わたしが殺したようなものだ、と急に激しい悲しみに襲われて声をあげて泣きました。

その日は泣いたり怒ったりで忙しくてあまりよく眠れませんでした。

日本人の先輩に愚痴りましたが、もうその元凶教授の友達が主催する日本校の講師に就職が決まっているという先輩はもうあちら側の人間ということでしょう、たった一言(やな奴だよね、というわたしの言に)ウン、と言って欲しかっただけなのに、担当教官も板挟みのストレスでお腹痛いみたいだよ、と遠慮しながらわたしに言っただけでした。

 他の日本人の先輩は、例の学年トップ君は、毎日試験の後、元凶教授の所に通って今日の試験は難しかった、ってアピールしてたのを友達が目撃していたよ。そのアピールのおかげで彼一人通ったんじゃない?

 と失礼なことを言っていました。学年トップ君は、すごい勉強量でした。1か月前の準備試験で、トップの生徒がサンスクリット語で60点越えをした学年なんて今までありません。日本の点数とインドの点数とはちょっと感覚が異なりますが、

日本の90点~100点 = インドの80点以上
日本の80点~90点  = インドの70点以上
日本の70点~80点  = インドの60点以上
日本の60点~70点  = インドの50点以上

な感じです。インドは、決して学生に90点台や100点は出しません。先生の権威を守りたいからでしょうか。
そしてたいていの外国人学生は50点台がやっとです。60点出すとお、できるねえ。という感じで、70点超えは、もう州で何番、くらいの超優秀なイメージです。

わたしの学年の学年トップ君がいかに優秀だったかおわかりいただけると思います。

ちなみに、インド人はとても嫉妬深いので、人種差別もあります。どうやら、外国人に良い成績を取られるのが癪みたいです。だから、すぐ上の学年の学年トップさんは、50代エンジニア、アメリカ系インド人のおじさんですが、彼は89点で伝説の最高得点となりました。先生のお気に入りで、礼儀正しい、インド人の彼に最高得点を取らせたかったのでしょう。

が、彼の学年の問題はとても優しかったのと、彼はインド人ですからヒンディーができるので、ヒンディーの教科書(英訳されてない)を直接読める有利な点があったことを考えると、わたしはうちの学年の学年トップ君のほうが実力や勉強量は上だったんじゃないかと思っています。

話が逸れました。

 つまり、うちの学年のトップ君が難しい、と訴えるレベルだったのに、そしてそれを少なくとも試験の日にはその元凶教授は知っていたはずなのに、結果発表になって試験が難しすぎる。質問もできなかった。と抗議したわたしに、

「わたしも結果が発表されて初めて今年の試験がこんなに難しかったと知ったんだよ。(問題の難易度を調整する)コーディネーターがいなかったなんて知らなかった。」

とぬけぬけと抜かしたのです。つまり嘘をついていたということです。コーディネーター云々は、たぶん語るに落ちる。で、わたしはそんなことは知らないし聞いてもいないのに余計な事を言ってますから、たぶん彼の命令でコーディネーターに問題の難易度の調整はするな、とでも言ったのでしょう。他の試験官にも、採点は思いっきり厳しく。とでもいったのでしょう。
 
そもそも、去年は変なことばかりでした。この1か月前の準備試験で、先輩達は、名前だけ書いて10分で出てきてしまう、準備とは名ばかりの試験で、だからどの学年のどの生徒も、合格点の50点以上取る生徒なんていません。0点のオンパレードです。

それが普通だったのに、去年は、なるべくよい点を取らないと本試験を受けさせない。とか、時間ぎりぎりまでがんばりなさい。と言われていました。

その意図など知らず、できる生徒たちはそのとおりにしていました。だからかなりの科目で、50点超えの生徒がちらほらいました。

つまり、わたしたちの学年がとても真面目で他の学年より優秀であることをあらかじめ知っていた元凶教授は、この準備試験でわたしたちの実力を測り、本試験でそれをもっと上回る難易度であるとか、過去問の傾向を外した出題にしてでも、点数で報復するために、意図的に落そうとした、と考えられます。

それが、解剖の先生が授業に現れないから、変えてくれ。と何度頼んでもらちが明かないので、学長→副学長→元凶教授、の順に頼みに行ったことの、わたしたちへの報復だというのですから、教師の風上にも置けないチ〇カス野郎です。

 こんなことで恐怖政治を敷くことしかできない、小心者のチン〇ス野郎のせいで、わたしは2年生になれず、いつまで経っても臨床の勉強ができないのです!!!!

怒りと悲しみのせいか、胆嚢のあたりが重く張って苦しくてなかなか寝付けない日もありました。

たったひとつ上の学年はもう新3年生になって白衣を着て病院実習に行っていますし、元同級生たちは、また薬草学の先生がいないの。と暗い顔をしつつも2年生の勉強をしています。わたし一人、監獄に押し込められていつまでもつまらない1年生に取り残されているいるみたいだ。と強く思いました。

わたしは他の学生を見るのがつらかったのと、誰にもこの怒りと悔しさと悲しさは理解してもらえないんだ。と思い、他人との接触を絶って自然と砂漠の監獄のような寮の自室に引きこもるようになりました。

外に出ると、元凶教授のスパイがじっとわたしを観察していますし、誰かに愚痴ろうとも、皆元凶教授の、試験でのしかいし。を恐れて本音を言いませんし、却って告げ口したりするからです。まるでカンシュコフです。

元凶教授は、金を包んだ子弟は例え8点くらいでも通すくせに、気に入らない外人学生は4回連続、同じ試験で落としたりするのです。4回と言ったら、2年間落ちっぱなし。ということです。


すると、いろいろなストーリーの夢を見るようになりました。たいてい亡くなった母が出てきました。そして夢分析すると、もっと勉強しないと。大事なことを忘れてない?初心に帰りなさい。と説教される夢なのでした。

わたしは精神的に疲れ果てました。 激怒と孤独と悲しみとはこんなにも人間を消耗させるのか。と思いました。周りのだれも、信用できませんでした。あともう1,2か月、あの状態が続いたら発狂していたかもしれません。



↑中の人は違うけれど、檻の中のiwamula.こんなイメージ。

 誰か、この砂漠の牢獄から出してくれないかな、…と思いながら、名医先生との約束の1か月が近づいたので、わたしは仮釈放される気分でいそいそと旅支度をしたのでした。





 時は7月上旬にさかのぼる。

 チェンナイでインチキアガスティアの葉体験をした後で、マハーラーシュトラ州プネー市ワゴリ村へ向かいました。 ここは名医先生が開いた大学と附属病院とパンチャカルマ(毒素出し、デトックス療法)センターがあるところです。

 5月末に名医先生は来日されて、健康相談を行っておられたのですが、ちょうどそのとき母の入院のごたごたがあって、予約をしていたものの、行けませんでした。 それで大学に戻る前、名医先生の大学病院に直接寄って診ていただこう。と思っていました。  

 日本で、名医先生にかかった初診時は、アマルガムのせいで皮膚病や鬱傾向や疲れやすさがある。このまま放置すると甲状腺の病気を発症する。  と言われて、1年生の秋のディワリつまりインドの正月休みに、このワゴリ村で毒素出し療法をフルコース受けたのでした。  

それから二度目の来訪になります。  残念ながらこのときは毎月のお客様がちょうど帰りがけだったので、脈診には不適でした。  

同行していたO先生だけ、大学で先生に診てもらえました。  O先生は比較的健康な人だったので、あまりわたしのときと違って感動はなかったようでした。  

ついでに、今の大学がクソなので、転校相談をしました。そうしたら、落とした3科目、受かってから編入届を出すことね。でも、今までそういうことをした現地学生はいないけど。  と言われ、常にネガティヴモードのわたしは。これって、暗に断られてる?と思い、もう今の大学には戻りたくなかったのでとてもがっかりしました。  

でも、名医先生の息子さんたちは薬局や病院を案内してくれたり、学生食堂で美味しい朝ごはんと美味しい昼ごはんをおごってくれたり、と精一杯もてなしてくれました。

ついでに、ワゴリ製のよく効く若返り薬、シャタヴァリカルパもたくさん買い込んでしまいました。
 
 

 プネ市内のホテルに戻ってから、ブランコがあったのでつい乗ってしまいました。インド人は何故かブランコ好きです。自宅とか、ホテルの高級な部屋にブランコがあったりします。  

 総額2000ルピー、4000円しないくらいで設置から何からしてくれるらしいですが、平均的インド人よりは大柄なわたしは天井から落ちるのが怖いのと雨漏りが怖いので、こうして他所にあるブランコを楽しむくらいです。  


 翌日、プネー市内の名医先生のクリニックで、お客様が帰ったので脈をまた診てもらいました。  

…寄生虫がいる(また!?というのは初回毒素出し療法時にも言われたので…)。 
…毒素とピッタ(火に例えられる、消化吸収力)がくっついている。 
…毒素とカファ(土に例えられる。体を作る力)がくっついている。  と悪いところありまくりでした。

 カファ追い出し薬と、消化力を上げる薬と、寄生虫に効く薬用酒を処方されました。  

 寄生虫に対して、3日間の浣腸療法も勧められました。これをじゃーむながーるで行って、もし虫が見えなかったらまた1ヶ月後にワゴリに来なさい。そうしたら3日間ワゴリで同じ浣腸してあげるから。  と言われました。  



 後日、病院の機関誌に、「日本人の現代医学医師とアーユルヴェーダ医師、来る」という記事を載せたいので何か書いてちょ。とワゴリの大学から頼まれました。  


わたしは自分の皮膚病を治す過程でアーユルヴェーダを知りました。 

深く学びたいと思い、渡印の準備のためにサンスクリット語を日本で習っていた時、名医先生の弟子のSさんとクラスメートになりました。 

Sさんから名医先生の逸話を聞いてぜひ診察を受けたいと思いました。 幸いそれはすぐ叶いました。

診察は噂にたがわずすごいものでした。

毒素出し治療を勧められ、同年秋にこちらで受けましたが、その効果もすごいものでした。 

今回、都合で日本で診察を受けられなかったのでこちらに伺いましたが、温かくもてなしていただいてありがとうございました。 

ますますのご発展をお祈り申し上げます。  

という拙い英文を送りました。


ついでにお二人の写真も、…と言われましたが、生憎、二人ともワゴリでは写真を取り忘れていました。  

必死に砂漠の監獄、じゃーむながーる内で、「ワゴリぽく見える」場所を探して歩き、そこでワゴリ訪問時と同じ服装をして、「ロケ」で済ませました^^;↓
 
 

でもインド的にはヤラセ撮影でも全然おっけー。みたいです。締め切りに間に合ったので、さすが日本人!と先方にはとても喜ばれました。…そうなんだ……。


 今、インドで二度目、いや三度目の入院をしています。
とはいえ、元気です(日本や現代医学的には。)。あ、そうでもないか。

とうとう、寄生虫が検出されてしまいました。回虫の卵だそうです。

回虫って何?昔肛門にフィルム貼った検査のアレ?という方はこちら(精神的グロ注意)。

こっちでは生野菜は食べないように注意していたのに。もしかすると、日本のマクロビ生活で自然有機栽培とか言っちゃっていた野菜のサラダから!?

と感染源はわかりませんが、インド人ドクターはあっさりとわたしの脈を見ただけで、「虫がいる。ううん、衛生状態は関係ないから。」と言い放ちました。

「体に毒素が溜まっているとそれを発生母地として寄生虫は出てくる」のだそうです。じゃあ日本でも持っている人多いんじゃないかしら。と思いました。

だって、早食いしても毒素の元。
     食べ過ぎても毒素の元。
     前の食事が消化できないまま次の食事を食べても毒素の元。

ができるんですよ?一体、今の日本でお腹がぐー。と鳴いてから次の食事を食べている人って、32回良く噛んで食べている人ってどれだけいるんでしょう?


 そんなこんなで、今は下痢っピー療法のあと、浣腸療法に入っています。下痢っピーは胃と大腸の間の、小腸の掃除です。浣腸療法は、主に大腸の掃除です。でも薬液は、小腸まで達するそうですし、血管を通じてしみこむので、小腸にいる寄生虫の卵を殺したり、虫体自体を引っぺがして排出させることができるそうです。

 幸い、まだ白いそうめんはお尻から見たことがありません。

 最終日に、もう一度、虫がいなくなったかどうかの確認の検便をすることになっています。

 今日は雨季ですが、こちらは風が強い晴れた日です。

 入院してから2度目の日曜日です。前回はバカンスも兼ねた西洋人仕様のコテージに泊りましたが、外人価格で1泊2万4千円と高いので、今回はそれよりはお得な1泊1万4千円、日本の温泉旅館くらいの、大部屋を頼んでみました。

 先週は、ちょうど先にいた、不妊のオバちゃんインド人が退院したところで、5人収容の(恐らく一番高級な)大部屋ですが、たった一人だったので快適でした。

 が、一昨日、二人目のインド人の若奥さんが入院してきました。 結婚して一人の男児に恵まれてからすぐ右眼の腫瘍が出来、眼球摘出→放射線治療→再発→摘出→放射線治療→再発→摘出…を4年おきに繰り返している。という気の毒な人で、今回は現代医学医師の紹介で、アーユルヴェーダも併用してみようじゃないか。ということで、現代医学医師と、抗がん剤とのコラボレーションもしている当院に紹介されて、毒素出し療法のために入院ということです。

 アーユルヴェーダの抗がん作用を持つ生薬も使っているらしく、回診に来る先生たちの真剣さが違います。命にあんまり関わらない寄生虫持ちと癌ですから、まあ、当然といえば当然です。

 
 インド人は、戦前の日本人ちっく。というか、未だに家族やら親戚やら近所づきあいの絆がとても強いです。さびしいと死んでしまうウサギのようです。一人でいる。一人で何かする。ということはクレイジーというか信じられないことらしいです。

 この点、核家族化と機械化が進んだため、家でPCや携帯に向かえば、誰とも話さずほぼすべて用が足せてしまうので、他者との関係性が希薄化した現代日本とは対極にあります。

 つまり、わたしは一人でいるのが気楽なのに、インドではそれはとんでもないことなので、気を使った、「親切な」インド人たちは、「親切の」つもりで、なんだかんだ。と話しかけてきます。

 どこから来たんだ。日本か。
 職業はなんだ。
 どうしてインドに来たんだ。
 ●○◎▲(現地語)は話せないのか。ヒンディーは話せないのか。
 結婚しているのか。
 年収はどれくらいだ。
 日本の硬貨を持っているか?コレクターだから欲しいんだけど。
 インドは好きか?

………などなど。だいたいパターンが決まっているので、ああ、またか。と滞在3年目にもなるとうんざりしてきます。携帯番号やメールアドレスを聞き出して、携帯のカメラで写真を撮られた日には、パンダ扱いされている気がしてきます。そして携帯電話がかかってきた試しはありません。

 多分、ジャパニーの友達がいるんだ(一度話しただけで友達認定)。と。話のツマにされているのがオチだと思われます。

 その新しく入ってきた若奥さんも、ご多分にもれず、「ウサギ」な人でした。英語しか話せない、ジャパニーが同室者だなんて!!!と不安そうな心配そうな顔をしながら、あちこちに大声で携帯電話をかけまくり、向かいの病室の暇している関節症らしいオバちゃんと話まくり、…で夜型らしい彼女がようやく落ち着いてくれたのは夜11時過ぎです。

 …あれ?消灯時間って9時じゃないのかな?と思いつつ、額にあぜ道を作りながらいつも9時から10時に寝ていたわたしは、翌朝、5時から遠慮せず音を立てて洗顔などをしました。

 翌日、昼ごはんを一緒に食べながらお互いたどたどしい英語で話したら、同じ人間だ。ということはわかったらしく、少し落ち着いたようでした。

 そして日曜日になりました。彼女は金曜日から、日曜日には、主人とね、私の母と、うちの9歳の息子が面会にくるの。と楽しみにしていました。

 治療の内容の関係で、わたしのほうが先に昼ごはんが終わったので、入浴中の彼女に、携帯のカメラで見たとおりの家族が訪れたのを見て、わたしは気を使って外へ出ました。

 本当は、毒素出し療法中の患者は風や直射日光を避けないといけないので、散歩は朝7時から8時か、4時から6時にしろ。と言われています。

 午後1時過ぎだったので、雨傘をさして出かけました。といっても日本のフツーの病院のように、日曜日ならがらんとしている外来待合室とか、自販機コーナーがあるわけではありませんから、行き先は、名医先生のお父様のお墓しかありません。


 気を使って、というより「病院にいる家族」の画を見るのがつらかったのでした。

 
 実家の母が入院して最初の日曜日、それは余命宣告の翌日でしたから、いつ急変してもおかしくない、ということで、母が一番可愛がっていた、一番若い飼い猫を、病院地下駐車場に連れて行って会わせたりしました。

 だから「病院に終結する家族」を見ると、日印、現代医学とアーユルヴェーダ。という違いはあるものの、どことなく不安そうな心配そうな、でも会えて嬉しそうな家族のまなざしだとか、どこかぎこちなく、他の患者に遠慮した話し方やたたずまいだとか、それは人類共通で変わらないので、3カ月前のことが思い出されてなりませんでした。


 もう一つの入院も同時に思い出しました。子供の頃、ぜんそく発作で10回以上、入院しました。それは実家からは遠い都内の病院でした。

 周りに入院している子たちは都内の子がほとんどでしたから、両親や兄弟も、日曜日には大勢で来ていました。

 わたしは実家が遠かったので、日曜日かどうかに関わらず、親の面会は隔日でした。

 親が来ない日が日曜日だと、子供心に気まずさを感じました。わたしだけ、どこにも行くところがないので、たいてい面会時間の前に、前もって図書コーナーから手頃な本を選んできて、白いベッドの上で読書に熱中していますが、周りの子たちは親兄弟に囲まれ、はしゃいでいるからです。

 周りの子の親も、「日曜日に面会がない病気の子供」を純粋に哀れに思ってくれたのだと思いますが、「看護婦さんに見つからないうちに、おあがりなさい」と、当時まだごちそうだったのに、多めに持ってきたらしいイチゴのショートケーキをわたしにくれたことがありました。

 イチゴのショートケーキだなんて、牛乳卵アレルギーの弟がいて、貧乏だった我が家では年に1度食卓に上がるかどうか、いや、貰いものでない限り食べられなかったような気がするごちそうです。

 それなのに、そのショートケーキの味は覚えていません。早く、と促され、味わう間もなく詰め込んだからか、上からその大人の満足げな目線を感じていたからか、昔から無駄なプライドは高かったわたしが施されたように感じて悔し涙と淋しさを飲みこみつつ食べたからか、とにかく甘い思い出はありません。



 病室にいるのがつらくてお参りに行ったわたしは、名医先生のお父様に向かって、これこれこんなわけでね。本当はこの時間、ここに来ちゃいけないのは知ってるんですけれど、でもインドの病院って、行くところがなかったからここにくるしかなくて。と愚痴りました。

 病院建設に来ているインド人が、昼食後の昼寝をしに、お墓に来たらしかったので、彼にお墓の席を譲って、今度は防虫で有名で、「虫が来ない」と言われているニームの樹の下でしばらく鳥の声、葉や草のざわめき、虫の羽音、リスの足音などを聞きながら、蝶が舞うのを見ながら、石の上に座りました。


 
 しばらくすると腰が疲れて、かなしい思い出とさみしい思い出が風に吹かれて飛んで行ったような気がしたので、病室に戻りました。

 すると長居をしてはいけない。と気を使ったのか、若奥さんの家族はそそくさと帰ってしまいました。もう少し外に居てあげれば良かった。と後悔していたわたしに、若奥さんは家族の差し入れらしい、赤い頬のようなリンゴをくれました。

 
 左の茶色いのは、オフィシャルおやつの、柿に似た食感のインドの果物、チク。

 今度はゆっくり味わって食べられそうです。

 と思ったら甘い薄味でしたが(何やそれ)、家族の思いが詰まっていたので少し泣きそうになりました。





 


 
  

あんまり見てほしくなかった先輩たちに見られていたと一昨日判明したので、
衝動的に旧dtiブログは削除してしまいました。

以前のdtiにする前は、変な知り合いでもない人に粘着されたので、それがウザくてコメント、トラックバックはなし。にしたのですけれど、見てほしくない人に見られる。問題はpingを送らなければ良いのかと思っていたら、リンク貼るだけでもダメだったらしく。

それで一度は考えたものの、実際知り合いのブログが何の知らせもなくそうなっていたとき、嫌われてたのか…がびぃ~ん。という思いをしたので印象が良くなかったパスワード制で原則非公開。にするしか見てほしくない人に見られない方法ってないんじゃなかろーか。と思ったので、dtiはテンプレートがなかなかいいのが増えなかったり、エロ広告があったりしたので、引っ越し…ではなくパスワードが使える忍者に夜逃げしてきたのでした

 引っ越しというと、今までのコンテンツ全部持ってお引っ越し(エクスポート)。なイメージですが、全て消去して逃げたので、夜逃げ。です。これからはドメインの通り、世を忍んで生きていこうと思います(?)。

 で、試験前で囚人のように寮にこもっているので、ネタもないので、当分あんまり更新もしないと思います。


 取り急ぎ、夜逃げと生存のご挨拶まで。

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非公開
職業:
元医者

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