Japaayurveda
日本人の、日本人による、日本のためのアーユルヴェーダのつもりが今のところ只の雑文録。
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今、インドで二度目、いや三度目の入院をしています。
とはいえ、元気です(日本や現代医学的には。)。あ、そうでもないか。
とうとう、寄生虫が検出されてしまいました。回虫の卵だそうです。
回虫って何?昔肛門にフィルム貼った検査のアレ?という方はこちら(精神的グロ注意)。
こっちでは生野菜は食べないように注意していたのに。もしかすると、日本のマクロビ生活で自然有機栽培とか言っちゃっていた野菜のサラダから!?
と感染源はわかりませんが、インド人ドクターはあっさりとわたしの脈を見ただけで、「虫がいる。ううん、衛生状態は関係ないから。」と言い放ちました。
「体に毒素が溜まっているとそれを発生母地として寄生虫は出てくる」のだそうです。じゃあ日本でも持っている人多いんじゃないかしら。と思いました。
だって、早食いしても毒素の元。
食べ過ぎても毒素の元。
前の食事が消化できないまま次の食事を食べても毒素の元。
ができるんですよ?一体、今の日本でお腹がぐー。と鳴いてから次の食事を食べている人って、32回良く噛んで食べている人ってどれだけいるんでしょう?
そんなこんなで、今は下痢っピー療法のあと、浣腸療法に入っています。下痢っピーは胃と大腸の間の、小腸の掃除です。浣腸療法は、主に大腸の掃除です。でも薬液は、小腸まで達するそうですし、血管を通じてしみこむので、小腸にいる寄生虫の卵を殺したり、虫体自体を引っぺがして排出させることができるそうです。
幸い、まだ白いそうめんはお尻から見たことがありません。
最終日に、もう一度、虫がいなくなったかどうかの確認の検便をすることになっています。
今日は雨季ですが、こちらは風が強い晴れた日です。
入院してから2度目の日曜日です。前回はバカンスも兼ねた西洋人仕様のコテージに泊りましたが、外人価格で1泊2万4千円と高いので、今回はそれよりはお得な1泊1万4千円、日本の温泉旅館くらいの、大部屋を頼んでみました。
先週は、ちょうど先にいた、不妊のオバちゃんインド人が退院したところで、5人収容の(恐らく一番高級な)大部屋ですが、たった一人だったので快適でした。
が、一昨日、二人目のインド人の若奥さんが入院してきました。 結婚して一人の男児に恵まれてからすぐ右眼の腫瘍が出来、眼球摘出→放射線治療→再発→摘出→放射線治療→再発→摘出…を4年おきに繰り返している。という気の毒な人で、今回は現代医学医師の紹介で、アーユルヴェーダも併用してみようじゃないか。ということで、現代医学医師と、抗がん剤とのコラボレーションもしている当院に紹介されて、毒素出し療法のために入院ということです。
アーユルヴェーダの抗がん作用を持つ生薬も使っているらしく、回診に来る先生たちの真剣さが違います。命にあんまり関わらない寄生虫持ちと癌ですから、まあ、当然といえば当然です。
インド人は、戦前の日本人ちっく。というか、未だに家族やら親戚やら近所づきあいの絆がとても強いです。さびしいと死んでしまうウサギのようです。一人でいる。一人で何かする。ということはクレイジーというか信じられないことらしいです。
この点、核家族化と機械化が進んだため、家でPCや携帯に向かえば、誰とも話さずほぼすべて用が足せてしまうので、他者との関係性が希薄化した現代日本とは対極にあります。
つまり、わたしは一人でいるのが気楽なのに、インドではそれはとんでもないことなので、気を使った、「親切な」インド人たちは、「親切の」つもりで、なんだかんだ。と話しかけてきます。
どこから来たんだ。日本か。
職業はなんだ。
どうしてインドに来たんだ。
●○◎▲(現地語)は話せないのか。ヒンディーは話せないのか。
結婚しているのか。
年収はどれくらいだ。
日本の硬貨を持っているか?コレクターだから欲しいんだけど。
インドは好きか?
………などなど。だいたいパターンが決まっているので、ああ、またか。と滞在3年目にもなるとうんざりしてきます。携帯番号やメールアドレスを聞き出して、携帯のカメラで写真を撮られた日には、パンダ扱いされている気がしてきます。そして携帯電話がかかってきた試しはありません。
多分、ジャパニーの友達がいるんだ(一度話しただけで友達認定)。と。話のツマにされているのがオチだと思われます。
その新しく入ってきた若奥さんも、ご多分にもれず、「ウサギ」な人でした。英語しか話せない、ジャパニーが同室者だなんて!!!と不安そうな心配そうな顔をしながら、あちこちに大声で携帯電話をかけまくり、向かいの病室の暇している関節症らしいオバちゃんと話まくり、…で夜型らしい彼女がようやく落ち着いてくれたのは夜11時過ぎです。
…あれ?消灯時間って9時じゃないのかな?と思いつつ、額にあぜ道を作りながらいつも9時から10時に寝ていたわたしは、翌朝、5時から遠慮せず音を立てて洗顔などをしました。
翌日、昼ごはんを一緒に食べながらお互いたどたどしい英語で話したら、同じ人間だ。ということはわかったらしく、少し落ち着いたようでした。
そして日曜日になりました。彼女は金曜日から、日曜日には、主人とね、私の母と、うちの9歳の息子が面会にくるの。と楽しみにしていました。
治療の内容の関係で、わたしのほうが先に昼ごはんが終わったので、入浴中の彼女に、携帯のカメラで見たとおりの家族が訪れたのを見て、わたしは気を使って外へ出ました。
本当は、毒素出し療法中の患者は風や直射日光を避けないといけないので、散歩は朝7時から8時か、4時から6時にしろ。と言われています。
午後1時過ぎだったので、雨傘をさして出かけました。といっても日本のフツーの病院のように、日曜日ならがらんとしている外来待合室とか、自販機コーナーがあるわけではありませんから、行き先は、名医先生のお父様のお墓しかありません。
気を使って、というより「病院にいる家族」の画を見るのがつらかったのでした。
実家の母が入院して最初の日曜日、それは余命宣告の翌日でしたから、いつ急変してもおかしくない、ということで、母が一番可愛がっていた、一番若い飼い猫を、病院地下駐車場に連れて行って会わせたりしました。
だから「病院に終結する家族」を見ると、日印、現代医学とアーユルヴェーダ。という違いはあるものの、どことなく不安そうな心配そうな、でも会えて嬉しそうな家族のまなざしだとか、どこかぎこちなく、他の患者に遠慮した話し方やたたずまいだとか、それは人類共通で変わらないので、3カ月前のことが思い出されてなりませんでした。
もう一つの入院も同時に思い出しました。子供の頃、ぜんそく発作で10回以上、入院しました。それは実家からは遠い都内の病院でした。
周りに入院している子たちは都内の子がほとんどでしたから、両親や兄弟も、日曜日には大勢で来ていました。
わたしは実家が遠かったので、日曜日かどうかに関わらず、親の面会は隔日でした。
親が来ない日が日曜日だと、子供心に気まずさを感じました。わたしだけ、どこにも行くところがないので、たいてい面会時間の前に、前もって図書コーナーから手頃な本を選んできて、白いベッドの上で読書に熱中していますが、周りの子たちは親兄弟に囲まれ、はしゃいでいるからです。
周りの子の親も、「日曜日に面会がない病気の子供」を純粋に哀れに思ってくれたのだと思いますが、「看護婦さんに見つからないうちに、おあがりなさい」と、当時まだごちそうだったのに、多めに持ってきたらしいイチゴのショートケーキをわたしにくれたことがありました。
イチゴのショートケーキだなんて、牛乳卵アレルギーの弟がいて、貧乏だった我が家では年に1度食卓に上がるかどうか、いや、貰いものでない限り食べられなかったような気がするごちそうです。
それなのに、そのショートケーキの味は覚えていません。早く、と促され、味わう間もなく詰め込んだからか、上からその大人の満足げな目線を感じていたからか、昔から無駄なプライドは高かったわたしが施されたように感じて悔し涙と淋しさを飲みこみつつ食べたからか、とにかく甘い思い出はありません。
病室にいるのがつらくてお参りに行ったわたしは、名医先生のお父様に向かって、これこれこんなわけでね。本当はこの時間、ここに来ちゃいけないのは知ってるんですけれど、でもインドの病院って、行くところがなかったからここにくるしかなくて。と愚痴りました。
病院建設に来ているインド人が、昼食後の昼寝をしに、お墓に来たらしかったので、彼にお墓の席を譲って、今度は防虫で有名で、「虫が来ない」と言われているニームの樹の下でしばらく鳥の声、葉や草のざわめき、虫の羽音、リスの足音などを聞きながら、蝶が舞うのを見ながら、石の上に座りました。
しばらくすると腰が疲れて、かなしい思い出とさみしい思い出が風に吹かれて飛んで行ったような気がしたので、病室に戻りました。
すると長居をしてはいけない。と気を使ったのか、若奥さんの家族はそそくさと帰ってしまいました。もう少し外に居てあげれば良かった。と後悔していたわたしに、若奥さんは家族の差し入れらしい、赤い頬のようなリンゴをくれました。
左の茶色いのは、オフィシャルおやつの、柿に似た食感のインドの果物、チク。
今度はゆっくり味わって食べられそうです。
と思ったら甘い薄味でしたが(何やそれ)、家族の思いが詰まっていたので少し泣きそうになりました。