Japaayurveda
日本人の、日本人による、日本のためのアーユルヴェーダのつもりが今のところ只の雑文録。
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第四章 その15 「ベラルーシのチェルノブイリ被災者疫学研究の現状」より
血液疾患とチェルノブイリ事故
チェルノブイリ事故以前の旧ソ連とベラルーシにおいては、血液疾患に関する科学的な疫学調査は存在しておらず、以前の記録と比較したり、それに基づいて何らかの結論を出したりすることは適当でないだろう。
それゆえ、血液疾患研究に関する国際的な要請を受けて1988年、ベラルーシ保険省の血液疾患輸血学研究所に、ベラルーシ血液疾患登録が創設された。そこに登録された小児白血病には、1979年から1992年までの1362件の急性白血病が含まれている。さらに、1993年から1994年にかけて、ベラルーシ全体で156件の急性白血病が追加された。
チェルノブイリ事故以前の小児白血病(14歳以下)の発生率は、州によって差があるものの、ベラルーシ全体では100万人当たり42.0件であった。事故後の値は、100万人当たり43.3件である。
チェルノブイリ事故前と事故後とで、子供の急性白血病の発生率を男女別に見るとつぎのようになる。すなわち、男子では100万人当たり事故前(1979-1985年)で46件、事故後(1986-1992年)で48件であり、一方女子では100万人当たりそれぞれ37件と39件である。したがって、男子のほうが女子よりも急性白血病に罹りやすいという結果を示している。
リクビダートルに関する他の情報 リクビダートルの健康状態が悪化しているという話は、マスコミ報道、体験談、断片的データなどでずいぶん前から言われている。リクビダートルが自分達の権利を擁護するために結成した「チェルノブイリ同盟」に寄せられた手紙を2つほど紹介しておこう。 ミンスクで兵役についていたとき、1986年5~6月、彼はチェルノブイリ事故処理作業に参加しました。 1989年10月、検査のため病院へ行ったとき、左の腎臓にガンが見つかり、肺と肝臓に転移していました。小さな子供2人(2才半と6才)が残されました。ワレリーの子供達にチェルノブイリ退役兵の年金を得るにはどうしたらよいのか教えてくださるようお願いいたします。 1990年1月20日 P・P・スバロフ」
手紙1:「数日前(1990年1月14日)、大変な悲しみが私達を襲いました。私達の息子、ワレリーが逝ってしまったのです。1965年生まれでした。
手紙2:「チェルノブイリ事故の直後、私の夫は緊急招集され、事故処理作業に派遣されました。
その後、彼の健康は悪くなりました。常に頭痛や手足の痛みがありました。突然目が見えなくなりました。どこへ行こうと治療の方法がありませんでした。
以前は必要とされた人間であったのに、誰も彼を必要としなくなりました。
彼のために注射代を払わねばなりませんでした。医療費は無料のはずなのに、どこへ行っても金、金でした。彼の痛みはひどくなり、耐えられないほどになりました。そして1989年12月1日、彼は死にました。
このむごたらしい真実、何の助けもなくチェルノブイリのリクビダートルたちが如何に死んでいったか、私はみんなに知って頂きたい。彼らこそ、かつて世間から英雄と称えられ、国や世界を救ったと書きたてられた人々なのです。
1990年4月5日 N・マゲーラ」
しかし、リクビダートルの健康障害が、事故処理作業に従事したことによると当局によって認められることは、ソ連時代にはほとんどなかった。以下の通達もそうした事情を示している。
「ソ連国防省中央軍委員会通達 No.205 1987年7月8日
その1. 放射線被曝によって引き起こされる影響の一つとして、50ラド以上の被曝があった場合に5~10年後に発生する白血病に関心を向けるべきである。
その2. 事故処理作業に従事しかつ急性放射線症状の出なかった人物において、急性的な病気や慢性病悪化の兆候があっても、放射線被曝との因果関係を認めてはならない。
第10軍委員会委員長
軍医大佐 B・バクシュートフ」
つまり、リクビダートルの健康影響として問題となるのは白血病やガンであり、その他の病気になっても事故処理作業とは無関係である、というのがソ連当局の見解であった。
リクビダートルの病気は、‘ウォッカの飲みすぎ’とか‘放射能恐怖症’として無視されたのであった。
…犬HKで、情報弱者のジジババが寝静まった深夜にこっそりと三夜連続で、今月、「チェルノブイリの今」を特集した外国の放送局が製作した番組を翻訳して放送していた。
第3夜目は「見えない敵」という、ドイツの放送局が2006年に製作した番組だった。
この論文を読んで、この番組のことが思い出されてならなかった。
ディーマという1人のリクビダートルが、原発作業に従事したばかりに健康もお金も失い、貧しさと病の痛み、苦しみの中で痩せ衰えた沈鬱な顔でインタビューに答えていたが、番組の最後に彼が人里離れたところで遺体で発見され、家族と連絡が付かなかったので無縁仏として葬られた、という衝撃的なラストで終わっていた。
ディーマは控えめで大人しい、チェルノブイリ事故に携わる前は色彩豊かな絵を描く画家だったのに、事故後の絵は色も画風もおどろおどろしいものに変わってしまっていた。毎日の食べるものに困ってやせ衰えていたのに、取材班をもてなすために、なけなしのお金で来客用に酒を1本買ってくるような心優しい青年だった。
軍隊を除隊され、チェルノブイリ事故から離れたリクビダートルの中には、バーベルが持ち上げられない、と言っている者がいたという。筋肉に沈着するセシウムのせいだろうか。それまではごく普通の力持ちの若者で、軍隊生活を務められたのに、だ。チェルノブイリ事故との関連を疑わざるを得ない。
多くのリクビダートル同様、貧困と病苦と孤独(と恐らく偏見も)が彼を苛んだ。番組で明言されていなかったが、ディーマは39歳の若さで自殺を選んだとしか思えなかった。
そしてもう一つ、プラウド紙の科学部部長であり、政治家にコネを持つ、「象の足」も見たという男性が証言していて印象的だったのが、当時のソ連のゴルバチョフ書記長は、チェルノブイリ事故の一報を聞いて、自分への攻撃、テロというか政権転覆を狙った事件と(被害妄想的に)受け取ったらしい。
リクビダートルをはじめとする被災者へのこうした冷たい通達は、純粋に財政面の苦境だけではなく、この彼の第一印象も影響しているのだろうか、と考えさせられた。
第4章 その18 「ウクライナ・ルギヌイ地区住民の健康状態」より
P200
免疫系
免疫系の状態は、健康状態を知る上で最も重要な指標の一つである。ルギヌイ地区中央病院のデータによると、事実上全ての患者に免疫力の低下がみられた。
この免疫力の低下は、感染症の増加と長期化、急性進行型の結核の増加、疾病の再発、疾病にかかりやすい人々の増加、ガン患者の診断後余命の短縮、疾病の経過不良、病原体の毒性増加、アレルギー疾患の増加などとして臨床的に観察されている。
ガン患者の医療記録(カルテ)を調べると、つぎのような深刻な傾向が明らかとなった。
すなわち、ガン患者の診断後の余命が、チェルノブイリ事故後毎年短縮しているのである。
事故前の1984~1985年には、第3-4期の胃ガン患者の診断後余命は約60ヶ月であり、第3-4期の肺ガン患者では約40ヶ月だった。
1992年には第3-4期の胃ガン患者の余命は15.5ヶ月となり、第3-4期の肺ガン患者では8ヶ月となった。
そして1996年にはそれぞれ2.3ヶ月と2ヶ月になった(!!!)。
検査技術、診断方法、および治療方法は事故以前のレベルと変わっていない。
そのような余命の差が生じたのはなぜなのだろうか?生命力を維持するための免疫機能の重要性は、チェルノブイリ事故後に特に顕著となっている。
免疫機能は、生体組織の内部バランスを維持するのに重要な役割を果たしており、ガン防止の働きをしている。放射線の影響によって免疫機能は強度のストレスにさらされ、それに続いて免疫の働きが破壊される。そのことによってガンが進行すると同時に、治癒不能な感染症との合併症が起こるというのが、そういった患者の一般的な死亡経過である。
医師たちはまた、新規結核患者において急性進行型の結核が増えていることを憂慮している。これもまた、免疫機能が低下していることのあらわれである。(表9)
表9ルギヌイ地区での新規結核患者数、10万人当たりに占める急性進行型の割合
1985年 17.2%
1986年 28.7%
1987年 17.7%
1988年 14.5%
1989年 37.5%
1990年 66.6%
1991年 42.3%
1992年 33.3%
1993年 54.5%
1994年 50.0%
1995年 50.0%
1996年 41.7%
(平たく言うと急速に悪くなりやすく、治りにくく、再発しやすく、抵抗力が残らない。ということのようです。
結核のデータを見ても、事故当年が少し高かったものの、事故後三年から急激に増え、その後も決して事故以前のレベルには戻っていません。日本でも今後、東日本の病院では、多剤耐性結核の集団発生なんかは警戒しないといけなくなるでしょう。)