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Japaayurveda

日本人の、日本人による、日本のためのアーユルヴェーダのつもりが今のところ只の雑文録。

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ようやく本題に入ります。色々と衝撃的な事実がありましたが、一番腑に落ちのがこの章でした。

日本では3.11後、国民のパニックと経済の悪化を恐れた日本政府(と恐らくアメリカの軍需産業複合体)が息のかかった「御用マスゴミ」を使って東大など、東電の札束にひっぱたかれて科学者としての良心を失った「御用学者」を重用して根拠のない「安心、安全」を吹聴しまくりました。

彼らの罪は一番汚染のひどい時期に関東と東北の民をひどく被曝させたことでそれは徐々に明るみに出ています。

政府が情報隠しと国民を被曝させることに躍起になっていた頃、ネットの世界では民間の理系の人達(物理系、医学系、気象系スペシャリスト)の中で心ある人達は避難すべき、とか色々な情報が飛び交っていました。

中に、日本政府の無能さ、ダメさに絶望して、「福島の子供達だけでも強制疎開させるためにはWHOやIAEAや人権団体に協力を求めて外圧に期待するしかない」という声も多々聞かれました。

わたしはこの章を読むまで、WHOやIAEAといった国際機関も地に堕ちた存在だったということを、知りませんでした……


第二章 チェルノブイリ原発事故:国際原子力共同体の危機
ミハイル・V・マツコ ベラルーシ科学アカデミー・物理化学放射線問題研究所
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ようやく読み終わりました。日本の将来を暗示するチェルノブイリ事故。

チェルノブイリ事故後10年間の、汚染された周辺国の健康問題、経済的問題、被災者支援の動き、社会の動きなどを追った論文集です。

よくネットで見かけた、チェルノブイリのホットスポットを表示した汚染地図↓なんかが巻末に資料として載っています。↓




しかし悲しいことに1998年出版なのと中身のマイナーさ加減からか、絶版です。わたしも古本でゲットしました。

どんなに干され(たであろう)ても、研究費に恵まれな(かったであろう)くても、昇進しなくても、今回の福島原発の事故前から、ブレずに「原子力をやめることに役立つ研究」を行ってきた京都大学原子炉実験所助教、今中哲二先生が中心となって寄稿、翻訳、編集を行っています。

目次はアマゾンの書評で見ていただくとして、わたしが読んだ中で一般的に知られていない・印象的だった章や内容をピックアップして次回から載せていこうと思います。



ネット・バカ ― インターネットがわたしたちの脳にしていること

常々自分のインターネット中毒は何とかならないか。と思っていたわたしは、週刊誌の書評でこの本を見つけ、そのタイトルのインパクトから早速購入しました。ネット中毒を治す一助になればと思ったのです。

しかしその内容はわたしの想像をはるかに超えていました。 今年一番わたしの知的好奇心を満たしてくれて、読む価値があった。と思った本です。

パソコンの前身(?)ワープロや、パソコンのワープロソフトが世に出てから、それらを常用して文書作成する人で、「漢字が書けなくなった」と思わない人は多分いないと思います。変換キーを押すだけで自動的に候補が現れる作りですから、見て判別できれば良いわけで、綴りを正確に覚える必要がないからです。

これと同種の退行を、ネットは人間の脳に行っている。という話です。

記憶力、集中力、深い思索のみならず、人間が人間たる所以、他者への共感、同情といった高度な精神機能まで犯され、代わりに一度に多くのことをこなす能力―今ネット時代の人が普通に幾つものウィンドウを開いたままでメールやツイートのフォローをし、検索し、音楽やモノを通販で買い、…といった、主に視覚運動機能は鍛えられるものの、その代償として先に挙げた能力が劣るようになるというのです。

1冊の分厚い本(「戦争と平和」が例に挙げられています)が、文学部の学生ですら読み終えることが出来なくなる(ほどの集中力の喪失、注意力散漫)……これも、ネット使用の代償だったのです。

ちなみにこの本は分厚いハードカバーですが、最初の頃は、自分のことを読書好き。という認識だったわたしでさえ、少し読んでは考えが脱線し、少し読んでは休憩し、…となかなか内容にのめりこめませんでした。

それもわたしがネット中毒だったからなのだ、と愕然としました。

が、読み進むうちに、だんだん脳が「集中して黙読する」モードに入ったらしく、長い機内を退屈せずに過ごすことができました。

様々な脳生理学、心理学の研究で実例を挙げてこの事実を述べていく有様に、わたしは戦慄しました。
印象に残った箇所を少し箇条書きにしてみます。


★人が後天的に盲目になった場合、脳の中の視覚刺激を処理していた部分、視覚野は、機能することを止めてしまうわけではなく、その部分はただちに、聴覚処理を行う回路に乗っ取られることになる。「ニューロン(神経細胞)は(情報の)インプットの受け取りを『欲して』いるかのようだ。いつものインプットがなくなってしまうと、二番目に良いものに対して反応し始める。」


★ピアノ演奏経験のない人を集め、シンプルな短いメロディの弾き方を教えた。それからその集団を二つに分け、一方には1日2時間×5日間、実際にピアノに向かってこのメロディを弾く練習をしてもらった。 別のグループには、同じ時間だけピアノに向かうものの、鍵盤を叩きはせず、このメロディを弾くイメージだけを思い浮かべるようにしてもらった。実験の前、最中、後。でこの二群を経頭蓋磁気刺激法で脳をマッピングしたところ、実際に鍵盤を叩いていたグループと同じ脳の変化がイメージ練習群にも現れた。

つまり、彼らの脳は、純粋に想像の中だけで起こっていたアクションに応じて変化していた、言い換えれば彼らの思考が脳に物理的影響を及ぼしうる

★可塑的であるとは弾力性があるということではないのだ。われわれの神経ループは、輪ゴムのように元に戻ったりはしない。変化したあとの状態にしがみつく。そして、新しい状態は必ず望ましい状態であると、保証してくれるものは何も無い。悪しき習慣も、良い習慣と同じくらい容易にニューロンにしみつきうる。

★ネット初心者の被験者に、1日1時間ネット検索を行ってもらった。ネット使用を始めてわずか5日で、インターネット初心者たちの前頭前野が、熟練したネットサーファーと同様、活発な活動を見せるようになった(実験前には初心者たちの脳のこの部位の活動は、認められていなかった)。
1日1時間コンピュータに向かっていただけでこのような変化を見せるほど、脳の反応が敏感なものであるならば、それ以上の時間ネットに接続していれば、どんな結果が生じるだろうか。

★我々は集中すべき対象がどんなものか、記憶しておかねばならないので、認知的負荷が大きくなれば、注意散漫状態も増幅される。脳に過大な負担がかかっていると、情報は維持できなくなり、すでに長期記憶に保存されている情報との関連付けもできなくなる。われわれの学習能力は損なわれ、理解は浅いものとなる。

★頻繁な中断(新着メールがありますよ、とかお気に入りのブログが更新されましたよ、といったお節介なアラームたち)は思考を断片化し、記憶力を弱め、我々を緊張して落ち着かない状態にさせる。行っている思考の脈絡が複雑であるほど、その注意散漫状態がもたらす損害は甚大になる。

★…デジタル書籍の将来市場における権力を、グーグル社に多大に持たせてしまうものだ。デジタル情報の普及を商業的にコントロールすることは、必然的に、知のフローの制限につながるのではないかという不安である

★グーグルブック検索をめぐる論争は、著作権法の精神と文面をデジタル時代に適応させるにはまだ時間がかかることを明るみに出している。この論争はまた、グーグル社の高邁な理想と、それを追及する際に同社がしばしば取る高圧的な手法について、多くのことを教えてくれる。グーグル社は、みずからの善良さを心から信じているのだが、その信念は企業倫理、反競争、カスタマー・サーヴィス、および社会における同社の位置に関し、独自に設定したルールを正当化するものだ。

(この部分は、わたしが漠然と感じていた
グーグルに関する胡散臭さを端的に述べてくれた箇所であります。
江戸取特待生の経験のおかげで、「
タダより怖いものはない」がなんか染み付いているんですよね。検索サービスとか、メールサービスとか、無料なんだけれど、その代償は、何!?みたいな。

今でも、「グーグル社 闇」といったワードで『ぐぐって』も、当たり前かもしれませんが、ろくな情報はヒットしない。商業ベースにする情報を意図的に偏らせたり、制限したりできるのでは、…という懸念は、同社が民間であり、『完璧なものはこの世に何一つない』以上、当然のものです。

 皆無邪気にグーグルのサービスを信頼しているけれど、正直わたしはメールの中の単語も、全て解析されているんじゃないかと思って、メインメールアドレスは今gmailだけれど、ちょっと薄気味悪さを感じていて、変えようと思ったことがありましたが、gmailを上回る無料サービスフリーメールは見つけられずに、忙しかったのもあって断念したという経緯があります。

 ストリートビューとか、便利である以上に立派にプライバシーの侵害だと思うんですが、相手の同意を得ない、コンセンサスの形成を見ないままどんどん勝手に進めちゃう、それを自分達は善かれと思ってやっているから、本当は始末が悪い、結構怖い会社だと思うんです。)

★記憶が脳内に定着する、もしくは「固まる」ためには、およそ1時間ほどが必要である

★反復は(記憶の)固定化を促進する

★精神疲労に関する試験で、被験者を二群に分け、一方には休憩時間に喧騒から離れた森林公園を歩いてもらい、もう一方にはダウンタウンのにぎやかな通りを歩いてもらった。休憩後、もう一度テストを受けてもらうと、森林公園の中で過ごした群は、ダウンタウン組と比べ、認知テストの成績を格段に上げた、つまり注意力を相当増大させることがわかった。

★集まった被験者たちに、人が肉体的、心理的苦痛を経験する話を聞いてもらう。それから被験者たちをMRIにかけ、脳をスキャンしながら質問を行い、話を思い出してもらう。すると、肉体的苦痛に対しては、脳は非常にすばやく反応する。誰かが怪我をするのをみると、脳内の痛覚中枢はほとんど即座に活性化されるのに対し、心理的苦痛に共感するというもっと複雑な精神プロセスは、はるかに緩慢に展開されることが明らかになった。つまり注意散漫になればなるほど、われわれは最も微妙で、最も人間独特のものである感情形態、すなわち共感や同上などを、経験できなくなっていくということである。


わたしたちはまだ、「PCの無かった」時代を知っている世代です。漢字の書き取りとか、読書感想文とか、小論文とか、文章を読んだり書かされることが多い学生時代を過ごしました。

それに引き換え、現代の、「最初からPC]がある若者世代の脳は一体どうなってしまうんだろう、と恐ろしさを覚えずにいられません。「キレやすい」「他者への共感、想像力に乏しい」「少しでも長い文章は母国語でも目が滑って読めない」といった、エイリアンのように思える若者の特性が、ネットが脳に解剖学的、生理学的変化を起こしてのことだったのなら納得がいきます。

まあでも、この本の著者も、自身が重度のネットアディクションであり、もうネットがない頃には戻れない(この本の執筆のためには一時的にネット絶ちをして、田舎の山小屋にこもって書いたらしいが書き終えてからは都会のネット環境に舞い戻ってしまい、その便利さと魅力には抗えない。と正直に書いています。

最初、この人の文章も、ちょっとネット世代ぽい?と思いながら読んでいました。

たくさんの生理学や心理学の実験の論文やら、地図、本の歴史書やら、引用は多岐多用、多種に渡ります。いずれも、ネット無しでは入手は容易ではなかったことでしょう。

そしてその全てを(引用元は明記されていますが)読んで、彼が本当に論文の意図を正しく知って引用して書いているのかを確かめることは、わたしには経済的、時間的にできません。彼自身、多分アブストラクトを読んで必要な箇所だけしっかり読んで、いわゆる「斜め読み」をして書いた。と書いていますから、自分の主張(ネットをするとバカになる)に合致した部位だけ、全体を見ないでつまみ食いして書いて、本来の論文の意図とは違う紹介の仕方をしている可能性は否定できません。

まあ、だから、この本の「実験」や「引用」の6~7割が正しい。と割り引いて読んだしても、恐ろしい内容であることには変わりありません。

わたしは、作者とは違ってアナログ人間に戻ろう、と思いました。

なぜならわたしがなりたいのはアーユルヴェーダの名医、ホンモノの名医は多分PCには指1本触れておらず、代わりに、触れたボールペンがいつどこで作られどのように販路にのってわたしの手元に来たか。を類稀なる「集中力」でもってわかってしまうすごい人だからです。

わたしが目指すこの先生のような、「すさまじいまでの集中力」と、このネットを行う結果起きる、脳の解剖学的、機能的変化はわたしが望まない、真逆の変化です。

というわけでこのブログもこれでいったんおしまいにしようと思います。始めたばかりで何だよぅ!!!という感じですが。

アナログに戻る!宣言をしたからには、文章は自分の手で書かねばなりませんから。

でも将来、気が変わったり、何かを強烈に伝えたくなるかもしれないので、一応ツールとして、存在は残しておこうと思います。

それでは皆様ご機嫌よう。




ロス祭り(?)継続中。これは博士最後の著作で、デーヴィッド・ケスラーさんという、お弟子さん(?)的ポジションの人との共著でもあります。

この単行本の表紙が美しくて欲しかったのですが、もう中古しかないみたいで、場所も取るし。と思い直して実際に買ったのは角川文庫のほうです。

人生は魂の修行の場。というスタンスの博士が、自身やかつて受け持った患者のケースでもって、人生で直面する様々な課題―愛、人間関係、喪失、罪悪感、恐れ、怒り、忍耐、許し、遊び、等々―について語る。というものです。

読んでいて、イマイチ、これまで読んだ自伝を含めた4作に比べ、集中力が持続しないというか、あんまりのめりこめない。おかしいな?と思っていました。

それぞれの課題について、ケスラーさんが自分の経験や自分の患者の経験。ロス博士が同じく自分の経験や患者の経験。について語る。という形式をとっていて、長さは自由なので、ほとんどロス博士の文章の章でケスラーさんの文はほんの少しだったり、逆にケスラーさんがかなり語って長かったり、と二人の文章が交互…でもないですが、混ざって出てきます。

後半のほうで、これがのめりこめない原因だ、と思いました。

わたしは英語は出来ないほうですけれども、英語だって、日本語の「書き言葉」に個性が出るように、論理の展開の仕方、単語の選び方、たたみ掛けるような話し方、など個性はあるでしょう。

ロス節一辺倒じゃなくて、このケスラーさんの話。がいちいち合間に入るから、どうもスピードに乗れない、というかのめりこめないのだ、とわかりました。

この人も悪い人じゃなさそうなんですが、例え本が半分の厚さになっても、ケスラーさんのパートを入れないで、ロス博士のパートだけにして出版すれば良かったのに。とちょっと思いました。

とまあ、読んでいて少し前作と比べると不満はあったものの、後半に行くに従い、心は凪いできました。

そのレッスンにまさに直面しているときは身にしみて読めるでしょうし、自分がこんなことまで魂磨きのレッスンとは思わなかった(遊びのレッスンなど)レッスンについては、それを意識する良いきっかけになるでしょう。

手元において何度も時期を改めて読み直すには文庫のほうがよいのかな、と思いました。

今回一番心に響いて過去四著にも出てこなかったエピソードとしては以下が挙げられます。


……第六章 罪悪感のレッスン より……


エレンは15歳で妊娠してしまい、罪の意識と恥辱に苛まれた家族はエレンを隔離して出産させ、生まれた娘を養子に出す決意をした。

45年後、死の淵にあったエレンが書いた、会ったことのないこの最初の娘への手紙。

『あなたがこの手紙を読むとき、わたしはたぶんこの世にいないでしょう。
わたしは自分の人生に満足しています。

でも、あなたがそばにいないことだけが、いつも気がかりでした。罪の意識を忘れたことはありません。
あなたに会うべきではないとわかっていながら、せめて、もしあなたがわたしに会いたいとすれば、会える手筈だけは整えておこうなどと思ったこともあります。

でも、もう時間がありません。最後にこの手紙だけは残しておきたいのです。
たとえどんなに不公平な人生でも、力のかぎり生きる道さえ見つけることができれば、死ぬときに価値ある死にかたができます。
それがむずかしいことははわかっています。

わたしは若いときに不公平な人生に巻き込まれてしまいましたが、あなたの人生はまだこれからです。
価値を見つけることができます。完璧じゃなくていい、価値があればいいのです。

あなたはわたしに必要とされていた。それを知ってほしいのです。あなたを手放したいなんて思ったことは一度もありません。
ある意味で、わたしはあなたを手放してはいないのです。

どうかいい人生、意味のある人生を送って下さい。

もし天国があるのなら、わたしは天国からあなたを見守り、あなたが死ぬまであなたを守ります。

あなたにその時が来たら、きっと会いましょうね。

それだけが願いです』


奇しくも、うちの母の最期の言葉と一部被っていたので、泣けて仕方ありませんでした。

ちなみにこの手紙はエレンの死後家族によって発見され、ラジオで話題となり、娘かもしれないと名乗り出た女性はDNA鑑定で、生き別れた娘さんだと証明されたそうです。

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元医者

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